サンゲン株式会社の安藤と申します。
本日は「自己紹介」ということで貴重な時間を頂戴して卓話をさせて頂きます。
福岡で生まれ、父の転勤により3歳で広島に移った故、牛田山のふもとで育ちました。
高校卒業後、大学進学のため上京、昭和63年に三菱商事株式会社に入社し12年間在籍後、平成12年に退職後広島に帰郷し、現在は父の創業した機械商社のサンゲン株式会社を経営しております。
それでは、商社時代→弊社サンゲンについて→家族について、と、順を追ってお話させて頂きたいと思います。
@ 商社時代
大学は将来の家業に役立つ学業ということで電気工学科に進学しました。
その頃、世界を知りたいという思いから“地球の歩き方”を持ってアメリカやヨーロッパでの貧乏旅行をしました。まだまだ知らない世界を見聞きし、その様な体験を通じて商社マンとなりました。
東京7年間でインド、中南米向け家電・事務機の輸出を担当し、最終的にはアラブ首長国連邦のドバイ駐在を5年間務めました。
前半の7年は日本にいた訳ですが、94年の結婚を機に大きく人生が変わりました。
95年の1月に娘が生まれ、3月にドバイに赴任して、生後5カ月で家内と娘はドバイにやってきました。飛行機の一番前の席に籠が取り付けられるのです。初夏のドバイに娘は籠でやって来た訳です。
初夏とは申しますが、あちらの初夏は既に気温は40度以上になっていました。
ドバイと言うと皆さんどんなイメージをお持ちでしょうか?お金持ちの国、七つ星ホテル、高級ショッピングモールなどでしょうか。ところが我々が赴任した1995年はまだそういったものはポツポツとでき始めたばかりで、仕事以外で遊びに来る人は殆どいませんでした。日本人が住める家も限られており、我々はハイアットリージェンシーの18階に新居を構えました。まだ朝暗い朝もやの中、朝5時くらいから流れるイスラム教のお祈りコーランで毎朝目覚めました。コーランは1日に5度流れ仕事が中断します。
ご存知かと思いますが、イスラム教ではお酒を飲んだり豚を食べたりすることを禁じています。
ドバイは中近東の中では比較的自由とはいえ、当然、お酒や豚は売っていません。
麻薬取り締まりも大変厳しいです。従って我々駐在員にはリッカーパミットという、アルコールを買える許可証を特別に与えられ、それを持って酒屋に買いに行っていました。
酒屋と言ってもまるで密売酒を買うような有様でした。我々外国人は、イスラム教では無いにも関わらず、お酒の購入が制限されていたのです。
ある時、広島の家内の実家から、オタフクのお好み焼きの粉が送られて来た時に、麻薬かと思ったのか、検閲で袋がバッサリ切られ、中から粉が出た状態で家に送られてきました。
また、女性の肌を見せることは禁じられているので、週刊現代などの週刊誌や家内用のファッション誌・女性誌が送られて来た際には、女性の水着姿など肌の露出している部分は切り取られるか、黒塗りになっていて、真っ黒になっていました。
娘はまだ赤ん坊だったので、生活面では大変苦労しました。例えば、賞味期限が切れている納豆が1パック450円でしかも冷凍食品のコーナーで売られたり、現地では牛や鶏も飼育されておらず、砂漠の国なので根菜類も無く、薬漬けの輸入品しかありませんでした。
そういう状況の中で、当時は日本食レストランも2軒しかなく、冷凍素うどんが1000円もしていました。出張者を自宅で接待する時もあり、準備する家内は大変でした。
ドバイはアラビア湾に面しており、対岸にはイランが睨みをきかせています。非常時にはすぐに脱出できる様、水・紙オムツ・粉ミルクは常備しておかねばなりません。また、裏話になりますが、紛争に備えて米軍が増えると売春婦が増えるので紛争危険度のバロメーターになります。
ドバイでの仕事の方は湾岸諸国、イラン、エジプト、トルコ向けのエアコンの販売がメインの仕事で、それに付け加えドバイでは三菱重工の発電所のプロジェクトとか、ドバイ空港向けの機材などを担当しておりました。
湾岸諸国は砂漠があるだけであまり見るところが無いのですが、イラン・エジプト・トルコは見るところが色々あり面白かったです。
特にエジプトのピラミッドや、エジプト考古学博物館は興味深いものでした。博物館には多くの遺跡が展示されており、ツタンカーメンの黄金のマスクやクフ王の遺品・ミイラ・棺桶・宝石・土器など、古代の遺品が展示されており、ゆっくり見ていたら、丸一日かかる程です。
トルコも東西文明の衝突地であり、アヤソフィアというブルーのモスクがあり、食べるものも美味しく、酒も飲め、日頃中東に居る私にとっては一番西洋に近くて自由な雰囲気が楽しかったです。
先程ハイアットリージェンシーの中に住んでいたと言うお話をしたと思いますが、こんな事もありました。同じマンションに住んでいる、いつも屋上のプールで携帯電話と葉巻を片手に優雅に過ごしているダンディな金持ちのアフガニスタン人が、うちの娘を可愛いと言って可愛がってくれていました。そのうち、自宅でパーティーをするから来ないかと誘われ、時々行く様になりました。そこにはエミレーツ航空のパイロットや、他の外国人なども出入りしていました。ところがある日、その家族がこつ然と失踪し、その御仁が国際指名手配されている事を知りました。実はその御仁はアルカイダの一員で、ドバイで武器調達を行っており、後から思えばアフガニスタン紛争の準備をしていたのです。ニューヨークの9.11テロを起こしたビンラディンが最初に従事したのが、このアフガニスタン紛争です。サウジアラビアでビンラディン家というのは、王族の一派で地元では知られた名士です。いま思うと、もしかしたら私をアルカイダに引き込もうとしていたのかも知れません。
又、ドバイは金融都市としての面もあります。ヨーロッパではスイスの秘密口座が知られていますが、中東ではドバイに秘密口座が有ることは知られています。そのせいか当時ビンラディンがアメリカンホスピタルに入院していたこともありました。
最近はゴルフをする機会が殆どありませんが、ドバイには名門ゴルフコースのエミレーツゴルフクラブがあり、随分やっていました。来年あたり徐々に再開しようかと思っているところです。
A サンゲンのこと
今年は父と叔父2人で昭和51年に三玄精機を創業して42年目にあたります。“三玄”の由来は“三”が3人、“玄”は玄人(プロフェッショナル)から来ています。
安藤家は元々福岡で造園業を生業としており、現在でも博多で安藤造園という会社を親戚が経営しております。祖父はその会社に勤務しておりましたが何せ昔の話で、当時は日給制で雨が降ると仕事が無く給料が無く、生活が安定しないことに祖母は悩んでいたそうです。たまたま祖母の妹が嫁いだ先が塗料や機械を扱う販売店であったことから、父が親戚の会社に入社したことが父の機械商社を興すきっかけになったようです。
入社して17年目なりますが、前職での経験が役に立っていると思います。その1つが入社時の直属の部長の口癖だった「3歩進んで2歩下がる」です。水前寺清子のあのフレーズです。あれこれ考えているだけでは状況がつかめないので、現場に足を運びそこにいる人と直接話をしてみること。その後1歩引いて判断せよとの教えでした。
2つ目は、ドバイ駐在時には常にその分野のトップとして判断を任されていた事です。
日本とドバイは時差が5時間あるため、現地での判断を任されておりました。又、相手はこちらが最終責任者のつもりで交渉してきており、30歳過ぎたばかりの私に決断をせまることもしばしばありました。
3つ目は、部下に指示を明確にする。なぜそう判断したかを説明することです。ドバイ駐在時はインド人の部下が数名いましたが、日本人同士のように以心伝心は望めないので、明確に指示する必要がありました。
入社した当時は父が社長でしたが、事業は空気圧機器の卸売りがほぼ100%でした。その状況に危機感を覚えた私は、これまでの海外取引の経験を生かした、海外製品の発掘・輸入など、新規事業を積極的に進めました。私は、入社してからこれまでを第二創業期と位置付け、設備・計測・特機開発とやってきて、最近は産業用ロボットにも力を入れています。これらの事業は従来の機械部品卸とは勝手が違い、高度な技術的知識・ノウハウ・経験が必要になってきます。ですが、事業が軌道に乗るにつれ、メーカーと一丸となり乗り越えたモノづくりの面白さなど、困難だからこそ得られるやりがいというものを、社員達は感じているようです。
社長になり3年が経ち、今年7月から第三創業へ向け経営理念の見直しを開始しました。コンサルの先生と協力して、まず2ヶ月かけてほぼ全社員の聞き取りを行い、我社の問題点を洗い出しました。
それと並行して、会社のミッションを再構築していくという作業に取り掛かりました。
決定したミッションは、以前から私の頭にありました「未来をデザインする」です。ここから、全社員に理念を浸透させ、より具体的なビジョンに落とし込んで行くため、次のプロジェクトを発足させました。その名も「未来デザインプロジェクト」。
このプロジェクトは次の2つの柱から成っています。1つは会社の軸となる、理念や具体的ビジョンを構築するプロジェクト、そしてもう1つはサンゲン式営業勉強会です。
理念の構築プロジェクトは、社内からプロジェクトメンバーを3名選び、コンサルの先生と共に月に1回集まってミーティングを行います。そして参加したメンバーは、西日本と東日本それぞれの代表としてミーティング結果を持ち帰り、各営業所のメンバーへその内容を伝え、共有します。この作業は、粘り強く何度も何度も話し合いを行い、会社全体で作り上げていくものです。プロジェトクトメンバーは中堅どころを選んでいますので、上役に説明するのに苦労しているようですがこの経験を通じて幹部育成が出来ればと思っています。
営業勉強会は月に1回全営業社員が集まり、それまで其々の営業所独自に行っていた営業の教育を、当社のベテラン営業マンが講師となりこれまで培ってきたノウハウを営業所の枠を超えて中堅・若手社員に伝えるものです。こちらは先月から第1回目がスタートしました。こういった全社的な勉強会を行うのは、久々の試みですが、特に若手社員にとっては非常に勉強になったようで、彼らがどのように吸収して成長していくのか非常に楽しみです。
B 家族のこと
家族は妻、大学院在学中の長女、高校3年生の長男と、8歳のミニチュアシュナウザーです。
ここで先月の新人紹介で赤羽先生が話されていた妻のことを少しお話したいと思います。妻は元々幼稚園の教諭をしておりましたが、結婚を機に家庭に入り、子育てに専念しておりましたが、長女長男も多きくなり、子供達の進学をきっかけに、最近ようやく関西を行き来できるようになりました。
子育て中に調理師の免許を取り、それを生かして健康な人もアレルギーの人も安心して美味しく食べられるようなおやつや料理を、幼稚園の料理サークルの講師をしています。子供達にも世界には色んな人がいて生活していることを見て欲しいという思いから、我が家では家族でオリジナルな旅行を企画しています。
そんな旅慣れている妻にとっても、今年の9月に行った南インド訪問は最も過酷なものだったようです。ドバイ時代にインド人専属運転手がおり、まだ言葉がおぼつかない娘にとって乳母のような存在だった奥さんが危篤と聞き、娘が南インドにどうしても行きたいと言ってきかず、急遽娘と妻で行くことになりました。
インドのビザ申請には正式には4日間かかるのですが、それでは日程上間に合いません。仕方なく、まずドバイまで飛び、ドバイでインドビザが取得できるのを待って入国しました。行き先がインドの奥地でしたので、日本のようにハッキリ住所が何丁目何番地と決まっていないので、タクシーの運転手にこの辺りと聞きながら探して行ったそうです。その間に日本人はおろか西洋人にも誰にも会わない数日間だったそうです。
たいがいの事では驚かない私も、今回の南インドの旅は帰国するまで心配しどうしでした。
また、4年前には余程の事が無い限り、訪問用のビザが下りないサウジアラビアに縁あって訪問したこともありました。当時のサウジアラビア大使夫人のかねてからの希望で現地に幼稚園を作るため、招かれたのです。厳格なイスラム教のサウジアラビアでは、爪と目以外はアバヤという衣服で全身を覆わなければなりません。これはイスラム教では美しいものほど隠すのが美徳とされているからです。
サウジアラビアは産油国でお金は有り余るほどありますが、文化面や教育面などのお金で買えない領域が不足しており、広く人材を求めていることが良く分かりました。ですから、もしかしたらこれから中央ロータリーでも何か懸け橋となれる可能性があるかもしれません。
そんな彼女がいま最も興味を持っているのがスリランカです。先日、赤羽先生からお話がありましたように、皆さんの中でももし関心がお有りの方と一緒に行ける機会があれば良いなと思っております。
以上、つたない話ですが自己紹介にかえさせて頂きます。奉仕の理想と親睦を大切にしているロータリーの理念を心して努めていくつもりです。
今後ともご指導の程よろしくお願い致します。
最後までご清聴ありがとうございました。
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